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日刊田中けん

アニメ「化物語」を全て見た。その1

 最近、稀に見るスッキリしてさわやかな終わり方をするアニメだった。奇っ怪な本編から想像もできないほど、後味がよい作品だった。作品を見終えてからエンディング曲を聴くと、誰もがきっと「なるほど」と思うだろう。よく考えられている。


 まずタイトルから。
「化物語」のように全て漢字のタイトルはやはり硬い。最近のタイトルの付け方としては、非主流である。カタカナだったり、アルファベットだったり、ひらがなだったり、漢字が含まれていてもひらがなとの組み合わせだったりと、漢字だけのタイトルは少ない。漢字だけのタイトルで他に有名な作品としては、「銀魂」「犬夜叉」「恋姫無双」などがあるが、どれもタイトルだけでは、まず見ようとは思わない。「犬夜叉」は見たことがないのだが、「銀魂」はギャグアニメ、「恋姫無双」は萌え系アニメであって、漢字のイメージほど硬い作品ではない。
 それに「化け物」と「物語」を重ねてタイトルを付けたことからも、本作が言葉遊びを多用する内容であることが暗示されている。ネットなどで語られる作品に対する前評判の高さは知っていたが、表層的な硬さもあって、この作品を私は見ずに放置していた。


 本編を少しだけ見てみた。表層だけ見ると、アニメであるのに、画面に漢字やカタカナを多用した文字があふれたり、実写が使われていたりしていた。その実験的手法は、「エヴァンゲリオン」や「絶望先生」で既に使われている。
 私の場合、幸か不幸か断片的にそのような手法からこの作品に入り、またストーリーをよく理解せぬまま、途中からこの作品に触れてしまい、かつて見た作品の「二番煎じ」かと思ってしまった。それもこの作品を放置してきた理由である。


 どんなに良い作品であっても、視聴継続となるには、それなりの仕掛けが必要となってくる。「ファンタジックチルドレン」や「エウレカセブン」のように名作中の名作(私を泣かすことができれば、それだけで名作です)であっても、正直、途中まではかったるくて、とても続けて見られるような展開ではない。幸いどちらの作品であっても、私の場合はなぜか、これから作品が盛り上がるだろう、中編以降から視聴したので、美味しい部分を短期間に堪能できたことがかえって最後まで作品を見ることができた原因だったのかも知れない。たるい前編を見て、それを乗り越えてこそ、感動作に出会えるわけであるが、途中の物語が盛り上がってきた美味しい章から見始めるという行為がダメというわけでもない。それに優れた作品とは、途中から見始めても、決して視聴者がわからないと言って投げ出すことがない仕掛けをしてあるものである。


 ヒロインが空から降ってきて、主人公がそれを受け止めるという衝撃の展開から始まるこの作品ではあるが、この展開は、すでに「ラピュタ」で使われている。現実にそんなことがあれば驚くこと間違い無いわけだが、アニメでは別に珍しくもない。ただ、そのヒロインの体重が無いという設定は新鮮ではあったのだが。


 とにかく、1話目で私は寝てしまった。1話目の展開もよくわからずに2話目から見続けた。
なぜ見続けることができたかと言えば、最初にヒロインのシャワーシーンからスタートしたからである。ガラス越しにヒロインの全体的なシルエットを見せつつも、その後は長い髪で少し隠れたお尻、足、へそなど、部分的に切り取られた女体の細部を映像で見せてくれる。
 一般的に、男性目線は女体を部分的機能として切り取る作業を行う。つまりこのように部位に着目して、その一点を凝視する。それに比べ女性目線は女体を切り取らない。あくまでも一体物として扱う。
 ただ、最近の傾向として言えば、お約束のように使われる女性の入浴シーンにおいては、全体像を映して、表現が難しい部位に関しては、湯気や光の加減で見せなくするという手法が採用されていた。これは、表現上の制約というだけではなく、あえて見せない部位を作ることによって、その後、この作品を気に入ってくれた視聴者が、「もしDVDを買ったならば、あの見えない部分も見えるかもしれない」という購買意欲をかき立てる役割も果たしている。
 当然ながら、アニメと言えども商品なのだ。視聴者が買ってくれなければ儲からない。
 その後、ヒロインはシャワーを終え、部屋に戻ってくるわけだが、そこに主人公が待っていて、草食系男子と思われる主人公の慌てっぷりと、裸体のヒロインの堂々とした態度が対比して表現されてくる。
 ここもまた「エヴァンゲリオン」でシンジとレイがレイの自宅で出会ったシーンの再現となっている。ただし、偉大なる設定状況とは、何度使い回しされたとしても色あせない。ただそれだけならば、単なる健康的なエロなのだが、ヒロインは、シャワーを浴びながら、自分がどれだけ悲惨な少女時代を過ごしてきたかを主人公に語る。
 幼少の頃、母親が怪しい宗教にはまってしまい財産を貢いでしまう。財産だけでは足りなくて、借金してまで宗教に貢いでしまう。父親と母親は協議離婚して、今、ヒロインは父親と一緒に住んでいるのだという。そんな不幸な設定も含めて、これからの展開が面白そうに思え、私は眠気から覚醒し、視聴継続決定となったわけである。


 主人公もヒロインもそうなのだが、彼らは人間でありながら少し人間ではない「化け物」の部分も背負っている。例えば主人公は軽く吸血鬼の要素があり、血は吸わないまでも、瀕死の怪我をしてもしばらくするとその傷が治ってしまう体質にある。ヒロインは大きな蟹に体を犯され体重が無い。その後出てくる登場人物にしても、カタツムリや「猿の手」のようなもの、蛇、ネコなどなど、怪異にとりつかれた少女たちが次々と登場してくる。その都度、その症状を別の人物がアドバイスした方法により治すことによって、小さな一つの物語が終わっていく。


 主人公はどこにでもいるような高校生男子だ。この設定も、別に珍しくも何ともない。高校生が中学生だったり、単に男の子だったりするだけで、最近の主流としてはそれらがどれも「草食系」だったりする。
 それに比べ、ヒロインの性格設定は変わっている。いわゆるツンデレ(普段はツンツンしていて、付き合いにくい人物なのに、好きな人に対してはデレデレしてしまう人のこと)やクーデレ(普段はクールでいるという、ツンデレの派生属性)でドS。時に、好きな主人公に対してさえ、彼女が暴力を振るうことは珍しくない。
 主人公本人は怪我が治りやすい特異体質という設定をいいことに、やりたい放題したりする。これは「撲殺天使ドクロちゃん」においてヒロインが、バットで主人公男子の頭を殴りつけ、首上部から上を胴体から引きちぎり殺してしまった後、魔法の力で、主人公男子を復活させるような設定に似ている。


 コンラート・ローレンツは、著書「ソロモンの指輪」の中で以下のように主張している。
 動物には同族同士で殺し合いをすることを禁ずる「抑制本能」が存在する。強力な武器(牙や爪)を発達させた動物に特有の本能で、逆に攻撃能力の弱い動物にはない。


 存在が暴力的である男性には「抑制本能」が機能し、同時にそれは常時社会的に求められている。それに対して、攻撃能力が弱い女性には「抑制本能」が機能しない。文化にも求められてはいない。
 攻撃能力が低いハトは、その性格から、一度争いが始まると相手を徹底して痛めつけてしまう傾向があると言われている。もしハトに、牙と爪を与えたならば、これほど恐ろしい鳥はないだろうとも言われたりする。


 攻撃能力の低い女性もまた、一度争いが始まると相手を徹底して痛めつけるようなことはないだろうか。児童虐待のように圧倒的な力の差がある場合は、「抑制本能」が機能しないばかりに、子殺しをしてしまう場合がある。事実、子育てに疲れて、子殺しをしてしまう母親はいる。自分よりも能力が低いと思った男性に対して、バカにしたり、時には暴力を振るったりすることはないだろうか。
 一般的傾向として、年齢・身長・年収・学歴・見識など、あらゆる分野で自分よりも上に位置する男性を好む女性は多い。これは女性特有の向上心の表れとしても考えられる。しかし、その趣向は、相手を下位に見ることによって表面化する「潜在的残虐性」を無意識に封じ込めるための彼女たちなりの予防策とは考えられないだろうか。


 とにかく最近のアニメ界におけるヒロインに、暴力女子は多い。これを単なる創造物として考えるのか、現実を反映した結果として考えるかは読者の判断に任せよう。
 さて「化物語」のヒロインである戦場ヶ原ひたぎも暴力女子の1人である。外見と性格と戦闘能力の高さからして、「けんぷファー」の三郷雫(さんごうしずく)とキャラかぶりするが、前者は私の好みではなく、後者こそが私の好みであると言える。それは一見すると、キャラかぶりする設定だが、よく観察してみると、前者が拘束君であるのに対して、後者が放任君であるという性格の違いが大きい。


 さて、話を元に戻すと、TV版最終話にあって、父親が運転する車に同乗しての初デート(主人公曰く、拷問のような初デートとのこと)にあって、いつもとは違う無口な主人公に対して、ヒロインは「私のこと好き?」と質問するシーンがある。答えに躊躇する主人公に対して、たたみかけるようにヒロインが言う。
「まさか私のこと好きじゃないのかしら?」
「す、好きです」
「そ、私も好きよ」
 明らかにヒロインの立場の方が主人公よりも上である。
 口数が少ない主人公に対して、
「今日は機嫌が悪いのかしら?」
「機嫌がどうとかじゃなくてな・・・・・・」
「あ~、頭が悪いのね」
 ヒロインは毒舌家であり、暴力的でもあり、好きである主人公をバカにもしている。普通、現実の女性が、バカにしている男性を好きになるとは思えないのだが、バカにしている相手だからこそ、暴力的対応が表面化しているとも言える。


 「わたしのどういうところが好き?」
 ヒロインのストレートな質問に対して、主人公は全く違った答え方をする。
 「好きじゃないところは、ハッキリしているよ。くそっ、本気で楽しみにしてたのに。夢が叶ったぐらいの気持ちでいたのに」


 「おい、戦場ヶ原。おまえ本当にどういうつもりなんだよ」
 「戦場ヶ原? それは私のことを指しているのかしら。それともお父さんのことを指しているのかしら」
 「えっ」
 「お父さん、アララギ君が呼んでいるわよ」
 「ひたぎさん、僕が呼んだのはひたぎさんです」
 父親が運転する車に同乗しての初デートを企画し、名字だけを呼ぶと誰を呼んでいるのかわからないととぼけてみせるヒロインは相当意地悪である。かつ、わざと自分の下の名前を相手に呼ばせようとした策略家でもある。それ以後の会話でも、主人公をバカにして、男心をもてあそぶヒロインだった。


 「おまえは僕のどういうところが好きなんだ?」
 「優しいところ、かわいいところ、私が困っているときにはいつだって助けに駆けつけてくれる王子様みたいなところ」
 「僕が悪かった」
 何かを質問されて、それに対して間髪を入れず的確な答えを返せる人を、私は知らない。ましてや人を好きになる理由を尋ねられて、こうスラスラと答えられては、主人公のように謝るしか無いだろう。   (つづく)


2010年02月01日