田中けんWeb事務所

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日刊田中けん

「ヨスガノソラ」を鑑賞しつつ、都青少年健全育成条例に反対する

都青少年健全育成条例改正案:都議会委可決 付帯決議で慎重運用要求 /東京
12月14日 毎日.JPより


 ◇「漫画、十分吟味を」
 書店の一般書棚で販売できる漫画は縮小へ。13日の都議会総務委員会で可決された青少年健全育成条例の改正案。6月議会で前回案に反対した民主も、今回は「強姦(ごうかん)や児童買春を不当に賛美して描く図書類を青少年が容易に読める状況は良くない」と賛成に転じた。今後は、慎重な運用を求める付帯決議の趣旨を、都側がどれだけ尊重するかが注目される。


 委員会では民主の小山有彦都議が会派を代表して意見表明し、改正案に理解を示した。1冊ごとに自主規制団体の意見を聞き、審議会で不健全図書を決める現行制度について、「客観性が担保されている」と評価。規制強化への出版関係者の懸念を踏まえ、(1)審議会委員が内容を吟味できるよう、対象漫画本を委員に事前配布する(2)審議会の公開--を都に要求した。


 共産と生活者ネットワークの両会派は、改正反対の立場で意見を述べた。共産の吉田信夫都議は「自主規制の努力があり、現状は野放し状態ではない。表現規制拡大の危険をはらむ」と批判した。


 付帯決議は「創作した者が作品に表現した芸術性、社会性、学術性、諧謔(かいぎゃく)的批判性等の趣旨を酌み取り、慎重に運用すること」「審議会の諮問にあたっては、検討時間の確保など適正な運用に努めること」などとしている。改正案に反対する請願2件、陳情330件は全て不採択となった。【真野森作】
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 都青少年健全育成条例改正案に賛成した委員の方々は、「強姦(ごうかん)や児童買春を不当に賛美して描く図書類」を日頃、どれだけお読みになっているのだろうか。
 そして、どの作品のどの場面に強姦や児童買春を不当に賛美されているというのだろうか。
 具体的にご指摘いただきたい。


 マンガの類はそれほど詳しくないが、アニメに関して、私は毎シーズン事に一通り見ている。自分の趣味が、このような条例案を考える上で、参考になるとは思いもしなかった。
 しかし、議員たるもの、広く浅く、時には深く、何にでも精通していることが、求められる職業なのだとつくづく思う。


 さて、自分が詳しいアニメに関して言えば、今期放送中のアニメで、一番この手の条例に抵触しそうな作品とは、「ヨスガノソラ」であろう。この作品は、元々18禁アダルトゲームだった。
 しかし、この手のアダルトゲームを元ネタにしている作品は、そのアダルト部分を様々な形で弱め、アニメ化に至っている場合が多い。
 「ヨスガノソラ」放送にあたって、AT-Xでは視聴年齢制限枠で放送されているため過度な修正はない。その一方、TOKYO MXやBS11では一部のシーンに修正が加えられている。TOKYO MXは、東京ローカルのテレビ局であり、東京都とは持ちつ持たれつの関係であることは周知の事実である。石原慎太郎都知事は何度も、このテレビ局を通じて、会見を公表している。そのTOKYO MXでも、現在、絶賛放映中のアニメが「ヨスガノソラ」である。


 では、なぜ「ヨスガノソラ」が一番、都条例に抵触しそうだと私が考えたのか。それはまず、乳首描写と性行為描写があるからだ。乳首描写に関しては、「一騎当千」も「クイーンズブレイド」もあった。それにしても、AT-X以外の放送局では、様々な修正技法(フラッシュ、影、墨、馬や人の顔、湯気、乳首が引っかかるように着られているシャツなど)により、乳首だけ見せないようにする工夫は、他の作品でもある。(同様の手法により、パンツ描写も制限されることがあるが、規制と言うことでは、乳首描写よりも甘い)
 しかし、それは単に見えてしまったという類ではなく、性交渉につながる一連の流れの中で見える部分と見えない部分があって、「ヨスガノソラ」の場合、元々がアダルトゲームであることから、前者の流れで見えてしまうのだ。ただし、それは各種修正技法によって、その部分だけ見せなくすることもできる。見せなくすることが規制ならば、それで規制はクリアできる。だからこそ、TOKYO MX放送しているのだろう。
 ならば、性行為描写についてはどうか。それはセックスをしているという描写であって、それ以上の何か特別な行為がそこで行われているということではない。都条例が問題視している、強姦や児童売春の賛美もない。
 もし更に問題視されるような行為があるとすれば、登場人物が未成年であることと、近親相姦を純愛で表現しようとする試みがあることだろうか。
 しかし、これとて、私の審美眼からすれば「なるほど」というだけであって、元々フィクションの話なのだから、何でもありの世界では、近親相姦の世界観も当然あり得ると見ている。


 近親相姦を問題視するならば、「冬のソナタ」のテーマは何だったのか。かつて山口百恵が主演した「赤い疑惑」のテーマは何だったのか。どちらの作品も兄妹恋愛という禁断の愛情が、物語のテーマであったはずだ。直接的なセックス描写があるかないかの違いだけで、その不道徳さと純愛さは、テレビアニメ化されたアダルト作品と何ら変わらない。
 もし違いがあるとすれば、前者の冬ソナや赤い疑惑などは、登場人物と視聴者が、大人の男女であるのに対して、後者のアダルトアニメは、登場人物が未成年で、視聴者は比較的若い大人であると言うことだけだ。

 つまり、なんてことは無い。社会的地位がある人達が認めた作品は肯定され、まだ社会的影響力が少ない若者だけに認められた作品は否定され、弾圧対象になっているが、作品としての本質は全く違わない。

 夏目漱石の文学は、三角関係がテーマであり、純愛不倫文学とも言われている。それでは、これらの作品はどうなのか。
 石田純一先生は、「不倫は文化」と言ったとか、言わなかったとか報道されたが、夏目漱石を持ち出すまでもなく、「文学や芸術で評価を得ているものに、不倫をベースにしているものがたくさんある」という先生の認識は正しい。
 まるで魔女裁判のようになって、石田純一先生は、その発言を撤回する様な場面を目にしたこともあった。それにしても、人間にとって不道徳だと思われる欲求や行為から、どれだけの文学が生まれたのか、少しでも調べてみればわかるはずだ。その文化がいけないとなれば、夏目文学だってダメだと言うことだ。どんなに不道徳で、非倫理的行為であろうとも、それがフィクションである限り、そこに優れた文学は存在しうる可能性はあるし、その存在が人間社会の豊かさの一助になっていることはいうまでもない。

 戦後すぐ、チャタレー事件があった。作家D・H・ローレンスの作品「チャタレイ夫人の恋人」を日本語に訳した作家伊藤整と、出版社社長に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件である。
 裁判は一審が無罪、二審が有罪、最高裁が上告棄却により、有罪が確定した。裁判の過程で、福田恆存が「表現の自由などはどうでもいい。『チャタレイ夫人の恋人』は、わいせつではない」と主張して無罪を訴えたのに対して、他の論客は、「『チャタレイ夫人の恋人』などはどうでもいい。表現の自由が大切だ」と主張して無罪を訴えた。
 双方のよって立つ価値観は全く違うが、どちらも無罪を主張したにも関わらず、裁判は有罪となった。
 では、1957年の最高裁判決から50年以上経った現在、日本社会はどのように変化してきたのだろうか。小説「チャタレイ夫人の恋人」を元にした映画「チャタレイ夫人の恋人 ノーカット ヘア解禁全長版」を誰もが、合法的にネットで買えるような社会に日本はなっている。
 その作品を私は見たことはないが、「ヘア解禁」と書いてある以上、女性の陰毛は映像に映っているわけだ。到底、小説の表現とは格段の違いで、“わいせつ”度はグレードアップしているに間違い無い。それにもかかわらず、小説は違法であり、映画は合法に販売されている。
 つまり長い時代の変化の前には、どんな仰々しい最高裁の判例であっても、バカバカしいほどに陳腐化してしまう。これが現実だ。
 今回の都条例を賛成している人たちは、この歴史と現実の差をどのように評価するのだろうか。

 結局、チャタレー裁判の二の舞になることは目に見えている。今後、どんなにたいそうな法律ができ、それによって処罰される人が出たとしても、この都条例は陳腐化の道をたどるであろう。およそ元小説家の石原都知事にとっては、都知事としても、表現者としての小説家としても、晩節を汚す、負の業績として、この都条例は多くの人々の記憶に残って行くに違いない。

 前述したように、元々はアダルトゲームであっても、テレビアニメ化された作品の多くは純愛系と呼ばれる作品群である。鬼畜系と言われる強姦を肯定した作品群が無いわけでもないが、そのような作品はさすがにテレビアニメとしては、どんなに規制があっても放送はされない。マニア向けに人知れず、セルビデをとして売られるだけである。
 つまりテレビアニメ化される作品群は、セックス描写があるとはいえ、中には見ている者を感動のあまり泣かせてしまう作品も少なくない。
 私自身も、そのような作品に感動を覚えた一人である。

 「そんなに素晴らしい作品ならば、セックス描写を無くして表現すれば良いではないか」
 このような反論も聞こえてくるが、このような無責任な発言は、創作者による「産みの苦しみ」を知らないノーテンキな発言だ。
 昔ながらの多くの童話がそうであるのに、セックス描写がないとか、子ども向けの作品とは、もともとがアダルトであったり残酷であった作品が、そのような部分だけを削除したりして成立していることも多い。
 素晴らしい作品とは、それが既に評価の定まった作品だからこそできる二次的創作物、三次的創作物であって、成功した作品でなければ、そのような過程は経ることはできない。
 種をまかなければ実がならないように、セックス描写や残酷な表現を過度に規制してしまうと、その後に続く、子どもたちにも読ませたくなる、見せたくなる、二次的作品、三次的作品という「実」もたわわに実らないのである。
 更に言えば、アダルトとして成功した作品の中には、セックス描写を除いて、小さな子どもでも見られるように修正した「全年齢版」という作品に生まれ変わった作品もある。「Kanon」は、そんな成功したアダルトゲームの一つである。これにしても、アダルト作品として成功したからこそ、全年齢版が誕生したのであって、全年齢版が先にあって、アダルト版が後からできたわけではないことに注目しなければならない。

 実は無名の、または小さな制作会社が作り出す作品誕生の過程で、アダルトと言われる作品は「絶対にセックス描写が不可欠」である。それがどんなにくだらない作品であったとしても、セックス描写があるからこそ、商業的に見て最低限の成功を保証してくれる。作品誕生の第一歩としては無くてはならない必要条件なのだ。
 それは、ハリウッド映画において、作品の内容と全く無関係であろうが、男女の恋愛要素を入れることによって、最低限の成功を保証するようなものである。恋愛要素が入ることによって、作品の質が下がったとしても、それは作品を成立させる上での通過儀礼のようなものである。どんなに素晴らしい映像芸術家と言えども、全くビジネスにならないことはできない。ましてや、それが新人であり無名であり、社会的な評価が確立していない作家や会社の作品ならば、ますます投資した金額に対して回収できる金額が少なくなるという危険を背負うことはとてもできない。妥協してわざと恋愛作品にする場合もあるのだ。
 商業的に最低限の成功を収めるという、必須命題をクリアするために、男性対象にはセックスを、女性対象には恋愛を、「わざと」作品の中に忍ばせるのである。
 逆に言えば、最低限の成功が保証されているからこそ、名もない新進気鋭の作家たちが、大きく育っていく土壌がそこにあるのだ。その母なる土壌を、今回の都条例は大きく壊してしまおうとしている。

 もし現代にも福田恆存が生きていたら、「表現の自由などはどうでもいい。以下のアダルトアニメは、わいせつではない」と主張するかもしれない。
「To Heart」
「Kanon」
「AIR」
 他にも子どもには見せられない作品として、残酷な殺人シーンが話題となった作品もあった。
「School Days」
「エルフェンリート」(この作品は、元はアダルトゲームではない)
 上記の作品の中には、強姦(School Daysでは1ヶ所)は少ないし、児童買春などもない。
 そのたった一つの強姦シーンについても、設定は以下の通りである。ヒロインの恋愛を応援してくれていると思っていた女友達が、実は裏で自分の恋人と通じ合っていた場面を偶然目にしてしまった。ヒロインはそれにショックを覚え、これまで一方的に言い寄ってきた男性に対し、自らの無抵抗により体を許してしまうのだ。この場面も、この半ば強姦シーンがあるからこそ、ヒロインのショックの大きさを映像として表せるのであり、ヒロインの切なさに、視聴者は涙し、共感するのである。
 何も強姦を奨励しているようなシーンではない。

 都条例を草案した人、賛成した人たちは、アダルトなマンガ、アニメ、ゲームについて、印象で語っているだけで、どれだけ該当する作品を見ているか非常に疑わしい。
 少なくとも、都青少年健全育成条例を推進する人たちは、この手の作品を私以上に鑑賞してから、法案の中身などを検討して欲しかった。

 私は、表現の自由を尊重し、これからも素晴らしい創作物を世に発表していただきたいという、豊かな日本の文化を支える立場から、都青少年健全育成条例には反対する。


2010年12月15日