田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

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日刊田中けん

災害時における情報取り扱いの難しさ

 3/11に発生した巨大地震を巡って、東日本各地で被害が広がっている。
 様々な情報がネット上を飛び交うにあたって、少しでも自分が誰かのために役立ちたいという思いが、軽率な行動に走らせることもある。
 今回、私が流した千葉のコスモ石油精油所の火災に関する情報がデマだとの指摘を受け、何人かの方からお叱りをいただいた。確かに軽率な行動だったと反省し、その情報は速やかに削除した。
 何か良かれと思って、自分がしたことが、逆に迷惑をかけてしまう。そのような体験を通じて、私は今後、一見役立つ情報だと思っても、それを簡単に伝えないようにすることを学んだ。とにかく不確かな情報を私自身が拡散させることがないように気をつけたい。沈黙することが、誰かの脚を引っ張らないことになるならば、それこそがささやかなる協力になるのではないかとの思いだ。


 確かに不確かな情報が拡散され、流布される状況は良くない。でも、不確かとはいえ、事実かも知れない情報がその中にもあるかもしれない。情報の真偽は究極の所、誰にも解らない。ただ「知ってしまったこと」に対して、その内容がどんなに深刻であろうとも、“不確か”という理由で、自分のところでその情報を止めてしまって良いのだろうか。そのような良心の呵責もある。経験上学んだことにより、自分の良心を満足させるよりも、責任ある行動を優先させ、「何もしない」という対応に徹すべきと私の経験則は回答するようになった。


 これに似た忸怩たる思いは、きっと私だけでは無いはずだ。様々な情報を個人レヴェルで真偽を確かめるなど、私にはできない。ほとんどの人たちにもできない。そんな情報ばかりが、飛び交っている。きっと賢い人は、「見ているだけの人」に徹して、「発言する人」にはならないのではないだろうか。
 発言には責任が伴う。もちろん匿名発言であれば、「知らぬ存ぜぬ」で済んでしまうかも知れないが、個人名がハッキリした情報は、そうはいかない。発言に対する責任はついて回る。それが災害時などのように、シリアスな場面であれば尚更だ。


 慎重に発言しなければならないという重さは、私のような個人ではなく、政府関係者、特に首相や官房長官ぐらいの国を代表する立場にある人になれば、より強くなるだろう。情報を発信すべき立場でありながら、限定した情報しか発信できないもどかしさを、発信者自身が感じることも多々あるだろう。重大な発言力を持つからこそ、実はそこで流されている情報は、つまらないほど当たり前の事、またはもう既に誰もが知っているような事実、またはそれに対するごく自然な当たり障りのない評論。その程度しか発言できなくなってしまうのではなかろうか。

 でも、そのようにつまらない情報しか提供できなくさせてしまうのは、何か事実に反したことを語ってしまった場合に、自分の責任を問われないための“保身”としての意識がそうさせるのであって、真に被災者を救いたいという思いとは別次元ではなかろうか、などと少々うがった見方をしてしまう。

 人命救助にあたって、良かれと思ってやったことに対して、結果的に人の命を救えなくても、その行為を免罪とする考え方がある。
 具体的なケースとしては、海で溺れている人を発見した。その人を助けようとして、その人ができる最大限の努力をした。しかし、結果としてその人は死んでしまった。こんな時、助ける側の技術が良くなかったとして、遺族などから恨みを買うこともあるだろう。
 しかし、このように人を助けようとして行った行動が、結果として、実を結ばず人を死なせてしまったとしても、助けようとした人の罪を問わない。免罪とするという考え方はある。そうしなければ、溺れている人を見ても、多くの人が自分の身(生物的な命ではなく、社会的な立場など)を心配して、助けることもしなくなってしまうのではないか。私もそう思う。
 100%成功するとは限らない難しい手術で、確率10%程度の難しい手術で、何もしなければ死んでしまう患者に対して、たとえ10%でも成功する可能性があれば、それにかけて手術をしてしまった医師に対して、結果として患者を死なせてしまった場合、それを罪として問うことができるのだろうか。(患者の意志や親族の意志を確認できない緊急時の判断、対応だとして)

 この様な緊急時だからこそ、情報発信者は、時に良かれと思ったことであっても、それが結果として“人が死んでしまう”ことにもなりかねない。その行為は罪に問われるべきか、それとも免罪されるべきか。

 政府関係者が情報を出さなければ、出さないなりに、「もっと詳しい情報を」との思いが、マスコミや国民にわき上がってくるだろう。それでも、不確かな情報によって国民を振り回したくないとの思いが強すぎれば、「つまらない情報しか語らない」というスタイルは今後も変わりはしないに違いない。
 「パニックを起こさせない」
 パニックこそが事態を一義的な目的としてしまうと、正確な情報などは公を通じて発表されずに、安心・安全を流布するだけで、実態とは違う情報ばかりが飛び交うのではなかろうかとの疑念を持ってしまう。


 確かな情報だけを流していく。これは大切なことだが、確かすぎる情報しか流してはいけないとなると、これまた必要な情報が一般に流れてこない。情報の津波が押し寄せてくることに対して、それを迷惑だと感じる人もいるだろう。惑わされたり、騙されたりすることに憤慨する人もあるだろう。
 それでも、私個人としては、様々な情報の洪水の中に身を投じていたい。それを受けて自分自身が情報発信をしないとしても、自分自身の中に、ある程度の真偽を見極められる眼力を養っておきたいし、何よりもそれが、どんなに玉石混合であろうとも、情報自体が入ってこなくなることを、自分自身の不利益だと感じるからだ。


 昔、私の知人で何を話しても「そんなことは当たり前だよ」と反応してきた人がいた。毎回同じように反応するので、こちらとしては、相手が知っていることを改めて言うことも失礼だと思い、以後その人に対しては、自分の知っている情報を語るのは止めてしまった。
 何でも知っているという人に対しては、情報は流れていかない。情報を「既に知っている」とよく言う人に対しては、情報は流れていかない。知っていることであっても、まるで初めて聞くことのように聞いてくれる人に対して、情報は喜んで流れていく。
 たとえそれがデマであったとしても、自分に情報が届いてこないような、そんな立ち振る舞いについては、日頃から注意しなければならないと私は私を戒めている。

 しかし、不確かな情報に対して、池田信夫氏は以下のように擁護する。
>「確認してから言え」とかいうバカが多いが、読みたくなければ読むな。災害のときは、不確かな速報も必要なんだよ。放射能あびてから確認とってもしょうがないだろ。

 それに対して、以下のような反論もある。
>「災害のときは、不確かな速報も必要」というのは、そういうパニックを引き起こす危険な考え方であると理解して欲しい。

 不確かな情報を流布させることを戒める意見もある。一概にどちらが正しく、どちらが間違っているとは言えない問題だ。氏のように挑発的な言い方はしないが、どちらかと言えば、私は池田信夫氏に近い考え方だ。
 「不確か」という理由で情報が入ってこないようでは、私自身は満足できない。情報を発信する側の場合は、もっともっと慎重に発言しなければならないが、他人のすることに注文はつけられない。そこには善意もあれば、悪意もある。それを判断するのは、個人の眼力だけだ。よって、私自身は他人が発した不確かな情報に対しても、常に耳だけは傾けておこうと思う。
 信じる信じないを判断するのは、私の責任だ。情報を発信した側ではない。だから、より多くの情報を把握しておきたい。自分が発信するかどうかは別にして。これが今回、私が学んだことだ。


2011年03月14日