田中けんWeb事務所

江戸川区議会議員を5期18年経験
巨大既存権益組織に斬り込みます!

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日刊田中けん

何度でも繰り返す、区議会での挫折の歴史(その2)

 1期目の初当選の時、私は29歳だった。区議会における交渉会派の数が4人であり、これに何の意味があるのか何て、1年生になったばかりの私にはわからなかった。同じグループの仲間が4人いれば、その中の1人が、各会派の代表者会議である議会運営理事者会議(以下、理事会)に出席できる権利を持つのだという額面通りの理解しかなかった。
 当時、私には「さきがけ」という同じ政党に所属するもう1人の仲間がいた。同じ1年生ではあったが、彼は私よりも年長だったため、対外的な交渉役は、その仲間に任せた。
 交渉会派の数がなぜ4人であるのか。長い議会の慣習の中で決まった、さほど数字には根拠があるとは思えない慣習に対して、それほど疑問を持たずに過ごした1期目の1年目であった。
 丁度半年経った頃、「刷新の会」という会派から、一緒にならないかというお誘いを受けた。私たち二人は「刷新の会」に合流した。同じ1期目であっても、2年、3年と議員を経験していくと、交渉会派4人であることの意味が、少数会派に議会活動をさせないために機能しているのだということがわかってきた。
 それでも当時は、中規模の会派に所属していたので、交渉会派が4名であることによる実害を受けることはなかった。
 1期目の4年目に私は、会派を抜け、1人民主党を名乗って、会派を作った。残任期間は残り1年を切っていた。既に実質的な選挙モードの時期である。不利は感じなかった。2期目の選挙は、民主党公認で戦った。


 2期目の時、私は33歳だった。議員3名が集まった民主党会派の幹事長として、第1回拡大幹事長会に出席していた。私には2人の1年生議員が仲間にいた。交渉会派の4名には届かなかったが、組織の長として、自分たちの主張を述べ、最大限、議員としての仕事がしやすい環境を作るべく、会議では言うべき事を言わなければならない立場にあった。
 前期は4名以上を確保し、交渉会派であった社民党の会派が、2名となった。人数は少なくなったが、2名の社民党の議員はどちらともベテラン議員だった。それは自民党・公明党から見ても同じだった。たった2名とは言え、その存在は議会全体で尊重されていた。
 拡大幹事長会では、メンバーが2名しかいない社民党の幹事長から、交渉会派を2名に変更する提案がされた。
《今から思えば、ここでの私の行動が、議員活動における最大の失策となってしまう》
 もしここで、私が交渉会派の2名変更案に同意して、自分自身も2名案を黙って飲んでいれば、このときから確かに江戸川区議会の歴史は大きく変わっていたかも知れない。しかし、2名に変更されるということは、社民党の幹事長がまた、議運理事会に招集されて、私たちのグループに対して異常な干渉してくることは間違い無かった。
 1期目の時、何度も何度も政治活動を妨害された社民党とは、私たちにとっては最大の政敵だった。彼らを自由に活動させないための(つまり、自分たちの活動の妨害をされないために)対策が必要不可欠だった。社民党幹事長の議会運営委員会出席を阻むためにも、交渉会派の人数を2名にすることは、私たちにとっては、容易に飲める条件ではなかった。それがたとえ自分たちの首を絞めることになったとしてもだ。
 当時の私は、以上のような思考回路に陥っていた。
 以下は、私が記憶している、当時の私自身の発言である。
「たしかに、交渉会派の人数を2名にすると言うのは一つの案です。しかし、この問題は、そう簡単に結論が出せる問題では無い。議論には相当の時間がかかる。すぐに議論をすればいいという意見もあるでしょうが、では、いつまで議論すればいいのですか。今日の夕方まで議論するのですか、夜まで議論するのですか。いつまで議論しても、結論はそう簡単には出てきませんよ」
 今読み返してみると、まるで今の自民党や公明党が、ルールを変えない言い訳のように使う常套句を、この頃の私は発言していたのだ。この様な結果、自公の積極的な発言を待つまでもなく、私自身が、交渉会派が4名であることを暫定的に認め、大勢は決まってしまった。
 2期目は、3人のグループで出発し、途中無所属などの方々と合流し「緑風クラブ」という会派を作った。一時は最大8人グループとなり、少数会派である悲哀を味合わずに過ごした2期目であった。2期目の2年目が終わってすぐに都議選があった。私は都議選に立候補して区議会を去った。都議選とほぼ同時に、民主党からも離れた。都議選には落選した。


 3期目の時、私は37歳だった。無所属で立候補し、当選して区議会に戻ってきた。私のいなかった2年間の間に、議会の会派構成は微妙に変わってしまった。私のような1人の議員を受け入れてくれる会派はどこにもなく、私は一人で議会活動を行うしかなかった。
 そのような思いで望んだ、第1回の拡大幹事長会議である。この第1回目の拡大幹事長会議で、その期の全ての方向性は決まってしまう。とても重要な会議である。私にとっては3度目の議会である。この日の会議の重要性を誰よりも認識していた。
 しかし、初めて議員になった新人議員にとっては、かつての私自身がそうであったように、その意味が体験的にわからなかった。交渉会派が4名を超えている、自民党・公明党も、この4名というルールを変更しようとは、思っていなかった。
 交渉会派の人数を4名から下げることに対して理解を示していた共産党も、自分たちは会派の人数が5名であり、切実度は少なかった。それほどこのルールを変更することに対して熱心ではなかった。
 1年生と2年生で構成される民主党とネットの合同会派にとっては、自分たちのメンバーが4名なのだから、やはり交渉会派4名の意味がわかるはずもなかった。自分たちには関係ない話であれば、共産党同様に、切実さはなかった。
 今期は、これまで政敵であった社民党の議員も落選してしまい、議会にはいない。私にとっては、もっとやりやすい議会活動が保証されるはずだと思って乗り込んだ3期目の議会ではあったが、現実はそれほど甘くはなかった。
 どんなに私が声を荒げて主張しても、自公の大きな壁の前に、交渉会派4名の壁を崩すことはできなかった。結局、交渉会派4名のルールは、この期も変わらなかった。
 この期から、私は区議会「一人の会」を名乗るようになった。
 この期において、私ができることと言えば、本会議において、毎回一般質問で、10分間だけ質問ができる権利を行使することだけだった。3期中は最初から最後まで、たった一人で議会活動を続けていた。一人とはいえ、それでも最大限、一人でできる範囲で、議会の中では発言を続けていた。本会議が開催される数を数えてみる。1期4年間の中に、年4回の開催で計16回ある。大きな選挙の直前に行われる本会議では、各会派1名しか一般質問ができない慣例となっていた。その1名の中に、一人会派は含まれていない。選挙前だと言うことを理由にして、私は能力として質問ができるにもかかわらず、権利として質問ができない回があった。
 それでも、4年間の間に、私は12回質問をしていた。江戸川区議会の中で一番多く一般質問をした議員になった。2番目に質問数が多かった木村ながと議員の質問数が7回であったことから、私がどれだけ数多く質問をしていたか、他の議員と比較してもおわかりいただけるだろう。

 4期目の時、私は41歳だった。前期4年間、たった一人で議会活動を行うことに懲りていた。自分自身は無所属でありながらも、議会内に仲間を求めていた。既存の議員が、私と一緒に会派を作ってくれないならば、新人議員と一緒になればいいではないか。私は、私と同じ選挙を戦う仲間を求め、多くの人たちに、江戸川区議会議員選挙に立候補することを促していた。幸いにも、一人の仲間が実際に立候補して当選した。一緒の会派を作って議会内活動をすることを事前に約束していた。
 その仲間も含めて、他の無所属議員なども交えて、一時は最大4名の会派構想もあった。これで私は一人で活動する現状から解放されると、わずかに思った。
 しかし、話を進めていけば進めていくほど、事態は思わぬ展開に転んでいった。4名の中に、中心となるべき一人の議員がいた。彼の強力な支持者が、他の特定の議員と一緒の会派を組んで活動することに対して、反対しているという情報が伝わってきた。議員同士の人間関係が良好だとしても、お互いの支持者が、他の議員のことを好んでいるかどうかは別問題である。支持者の存在が、その議員の立場を左右しかねないほど強力な影響力を持つ人物であればあるほど、議員の考えではなく、支持者の考えで議員は動いてしまう。
 この結果、まずはこの会派構想における中心的議員が、共同会派構想から脱落した。次にその議員の支持者から嫌われていた自民党の議員も、結局は、自民党公認の議員であり、自民党からの強力な引きもあって、自民党の会派に入ることになって、4人の中から抜けてしまった。
 残ったのは、私ともう1人、私が区議会への立候補を促し、当選した仲間の議員の2人だけとなった。しかし、私と2人だけで会派を組むことに、仲間と思っていた議員は難色を示した。私とだけ一緒に会派を組むことが、支持者から、どのように見られるのか、つまり支持者からの理解が得られないという理由だった。結局、それぞれ1人ずつの会派として議会活動をすることになった。
 この様な状況の中で、この期の第1回拡大幹事長会議は行われた。そう。まず、期の最初に1回目しか行われない拡大幹事長会によって、今期の方向性が全て決まってしまう。とても重要な会議である。
 しかし、私以外の誰も、この会議の重要性を理解していない。交渉会派4名という制限に該当しない、自民党と公明党は、そもそもこのルールを変える必要性を感じていない。メンバーが5名いる共産党は、問題は認識しつつも、前期同様切実さを感じていない。メンバーが6名いる民主ネットではあるが、幹事長が2年生である。共産党同様に切実さないし、どれだけこの会議の重要性を認識しているか不明だし、きっと理解していなかったはずだ。
 やはり、会議は自公が主導して話はまとまりつつあった。交渉会派4名ということになろうとしていた。私はこれまでずっと、同じ失敗を繰り返していた。何か一矢報いたいと思っていた。
 そこで私は主張した。
「交渉会派4名は多くの方々が納得されているので仕方が無いとしましょう。しかし、これでは、少数会派の意見は議会運営に反映されません。そこで、少数会派の立場に関係する話題の時は、該当する少数会派のメンバーも交えて、ルール作りをしていくことにしませんか。それを認めてくれたのであれば、私は今回に限り、交渉会派を4名とすることに同意します」 
 私が妥協できるギリギリの提案だった。他のことはどうでもいい。とにかく自分たちの議会内権利が、これ以上剥奪されないためにも、最低限、自分たちの立場に関係する話題の時だけは、当事者である私たちを交えて議論して欲しいというささやかな訴えだった。
 その場の大勢は、「それはそれで良いのではないか」ということになり、私の提案は実に“あっさり”採用された。今後、拡大幹事長会の機能は、理事会に引き継がれ、そこで議会のルールが作られていくことだろう。私は出席できなくなるが、そこで一人会派のように少数会派の立場に関するルール作りをする場合は、そこに少数会派である私が参加して、ルールを作るようになるのだ。これで、交渉会派が4名であるという大きなルール変更はできなかったが、最低限、一人会派の権利が侵害されることはないだろうと私は思った。
 しかし、私の認識は甘かった。私が参加できない理事会に舞台が変わった途端に、一人会派の一般質問は、年1回最大20分間とするルールが決まった。全くの改悪だった。私が参加しなければ決められないはずの一人会派の権利に関するルールが、私のいない会議で、私の意向を聞くこともなく、勝手に決められたのである。
 結局、この4期目は、3期目の一人会派として過ごした4年間よりも、もっと酷い議会運営になってしまった。3期目は12回できた一般質問の実績は、議会ルールの変更により4回までの実績に減らされた。少数会派を排除して、巧妙に議会ルールを変えてしまう。少数会派の議員が、議会活動をしている様子を、区民からは見えなくすることが、彼らの狙いなのだ。仕事(一般質問すること)ができないにも関わらず、あたかも仕事をサボっているかのように、陰に陽にと狡猾な区民への宣伝として使われてしまう。

 5期目の今、私は45歳となった。暁美ほむらのように、現実の人間は、都合が悪くなったからと言って、過去に戻って人生をやり直すことはできない。しかし、私は選挙が終わる度に、当選さえし続けていれば、何度でも最初に1回だけ行われる第1回拡大幹事長会議に出席することができる。
 この会議がとても重要であると言うことを、やっと他の期が若い議員たちも少しは理解するようになってきた。拡大幹事長会の前に、どのような会派構成になるかは、まだ余談を許さない。誰が拡大幹事長会に出席するのか、それも問題だ。
 まだ会議前の不確定要素があるにせよ、交渉会派4名のルールは、絶対に変えなければならない。当初の議員数は48人だった。それが今は44人に減っている。それにも関わらず、交渉会派の人数は変わっていない。4名という高いハードルが、より高く4人未満の会派の議会活動を妨害している。自民党と公明党は、このような少数会派迫害、差別に対して、全く鈍感である。いや、自らこそが積極的に少数会派差別を行っている張本人なのだ。

 自民党も公明党も、少数派に配慮するなどいう思いは、これっぽっちもない偽善者集団だ。


 江戸川区議会の負の歴史は、ここで終わりにしよう。歪んだ民主主義の概念をここで打ち砕こう。他の地方議会で行われている正常な民主主義を江戸川区議会でも実現させよう。「民主主義とは多数決だ」と、未熟な理解しかできない、自民党と公明党を説得しよう。少数派の発言権を充分に尊重した、当たり前の議会運営、つまり民主主義を江戸川区議会に取り戻そう。 


「繰り返す。私は何度でも繰り返す」
「同じような時間を何度も巡り、たった一つの出口を探る。江戸川区議会の少数会派を、絶望の運命から救い出す道を」


2011年05月02日