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日刊田中けん
爽快人間のCMを見て「妖怪人間ベム」について考える

 爽快人間の車内広告を見て、ふと思ったことを書きます。
http://www.youtube.com/watch?v=Smb7Dn65k_g


 爽快人間とは、アサヒブルーラベルというビールのよう飲み物のCMに出てくる「爽快になりたい人間」のことを言うようです。

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 爽快人間の元ネタは、もちろん「妖怪人間ベム」
 この作品の有名なセリフに「早く人間になりたい」という言葉がある。
ベム、ベラ、ベロの3妖怪は、自分たちが、人間に仇なす悪い奴らを退治することで、つまり善行を積むことで、人間になれると信じていた。


 妖怪のことを人とは呼ばないが、人は自分がなりたいと思っているものになれると考えている。


 今、この現実社会を見渡すと、自分が“他の者になりたい”と考えることは珍しくない。男が女になりたいとか、女が男になりたいなど、今では実際によく見る光景である。性別という“超えられなかった壁”を願望によって超えようと試みている人たちが、この世の中には何人もいる。
 性別だけではない。黒人が白人のようになりたいと思ったり、逆に白人が黒人のようになりたいと思って見たり、人種でさえも、なりたいあこがれの対象になりもする。
 国籍だってそうだ。世界には、日本人になりたいと思っている人たちが、何人もいて、隙あれば日本に移住して、日本で暮らしたいと思っている人たちはたくさんいる。
 同じ日本人にしても、東京に住んで東京人になりたいとか、北海道や沖縄に住んで見たいとか、思うものだ。
 同じ東京でも、江戸川ではなく、世田谷や麻布、青山あたりに住みたいと思う人だっているだろう。
 “何々になりたい”という人の願望は止めどなく、細分化して表れてくる。


 でもそこには、本当になれる者と、本当にはなれない者が厳然とある。


 私はかつて、バンコクのニューハーフショーを見に行ったことがある。ニューハーフには、大別すると、正に本物の女性顔負けのニューハーフと、とても美しい女性には見えないニューハーフがいる。前者は、ダンスや小芝居などを担当し、見ている者を驚愕させる。後者は、コミカルな立ち振る舞いをして、観客を笑わせる。
 しかし、ニューハーフがその存在のまま、食べていこうとすれば、ショービジネスに身を置くことは、比較的簡単なことであろう。回りも同じ“人種”の人たちだろうから、居心地も良かろう。
 人には、それぞれの特性にあった職業が、おのずと用意されているのかも知れない。


 まさに妖怪というべき“彼女たち”だか、果たして彼女たちは、「はやく人間(=美女)になりたい」という願望を持っているのだろうか。いや、きっと彼女たちは、妖怪は妖怪として生きていくことに誇りを持っているのではないかと推察する。


 さて妖怪の話題が出てきたので、妖怪人間の話題に戻る。


 妖怪人間であるベム、ベラ、ベロにとって、「人間になること」とは、宗教のように信じられていた。宗教という意味は、現実はともかく、そのようになると信じる心のことである。死んだら天国に行けるとか、悪いことをすると地獄に堕ちるという考え方も、非科学的であり、現実に証明できないという意味で“宗教”だ。


 非科学的だとして一蹴してしまうのは簡単だが、宗教を信じる心というのは、実際の人間を動かす。
 妖怪人間たちは、善行を次々と重ねていく。
 それに比べて、自分たちが“なりたい”と思っている人間たちは、必ずしも良い人ばかりではない。


 ここで不思議に思うのは、いくつもの経験を重ねることによって、彼ら妖怪人間たちは、自分たちが“なりたい対象”(=人間)が、それほど理想的な存在ではないと気がつかないはずがない。
 普通、人とは理想にこそ近づきたくなり、認めたくない今の現実からは遠ざかりたいと思うものだ。その理想だと思っていたものは、実は理想的では無かったとき、その理想に近づくことを止めてしまうのかと言えば、そうとも限らない。


 物語は、妖怪人間こそが、理想的な“良い人間”であり、作中の人間こそが、世俗的な“ダメ人間”であると見せつけてくれる。


 “偽物が本物を凌駕する”
 具体例がないとイメージがわかない命題かもしれない。


 私は以下のように理解する。
①人物画において、描かれた人は本物。オリジナル。それに比べて、描いた絵の中の人は偽物。コピー。
 しかし、その人物には価値は無く、描かれた絵にこそ価値があることは多々ある。
②ローリングストーンズのメンバーは大学生のインテリ集団であったが、歌手としては不良を演じていた。
 同様にビートルズのメンバーは不良の集まりであったが、歌手としては優等生(=アイドル)を演じていた。 


 彼ら妖怪人間は、自分たちが妖怪である現状を肯定せず、ひたすら人間になろうと努力して、人間を凌駕してしまう。
 理想的とは思えない存在(=人間)に変身したいと思うことは、愚かなことだと、私は一瞬思った。その瞬間、実は私が勘違いしていたのかも知れないと思った。


 妖怪人間である彼らは善行を重ねることで、人間になろうとはしたが、別に“善なる人間”になることを目的としていたわけではない。それは悪をも内包した人間そのものになることを目的としていたのであって、そこには善も悪もない。
 それよりも人間という、より多くの同類、仲間と共に暮らしたいと思う気持ち、そこにこそ、彼らの目的はあったのではないだろうか。


 政治家でもいるではないか。やたらと、与党、与党と与党になりたがる政治家が。与党になりたい政治家とは、権力欲が強い政治家だと有権者は思ってきただろう。でも、与党になりたいと思う政治家心理とは、単に自分が権力を欲しいからだけではない。権力を持っている“仲間”が欲しいのだ。単に数として同類の“仲間”が欲しいのだ。
 つまり、政治家であって、孤独に耐えられない人間は、自らの権力の有無とは関係なく、与党という大きな枠に群れたがる。その方が、安心だし、安全だから。少数派は何かと、不利益をこうむると、長年の経験則は、彼らを自然と多数派へと導いてくれる。


 そう考えると、妖怪人間の目的は、人間になることではなく、多数派の中に入ることで感じなくなる孤独からの脱却にあったのでは無かろうと思えてくる。
 恐竜の世界ならば、恐竜になりたいと思ったかも知れないし、猿の世界ならば、猿になりたいと思ったかも知れない。
 孤独とは、それほどまでに、辛くて苦しいことなのだろう。


 爽快人間かぁ。色々な事を考えさせてくれるCMだった。


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2011年07月12日 00時00分