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日刊田中けん
中間派に対する接し方

 これはいくつもの経験を積んだ者でなければ、なかなか難しい対応となります。頭でわかっていても、体がわかっていないので、間違った対応をしてしまうことも少なくありません。

 一種の笑い話ですが、今から10年ほど前、江戸川区では、保守を二分する区長選挙がありました。本当にどちらが勝つかわからない、ガチンコの一騎打ちとなる選挙でした。江戸川区政始まって以来の大選挙でした。
 この様な選挙にあって、ある区議会議員Cさんは、対立の構図に巻き込まれることを避けるために、A陣営とB陣営の二つの陣営の集会に顔を出していたそうです。
 その事実を誰かから聞いたA陣営の区議会議員が、Cさんに問い詰めました。
「Cさん、聞くところによるとB陣営の集会にも顔を出しているそうじゃないですか。今回の選挙はとても重要な選挙です。A陣営にも顔を出す。B陣営にも顔を出すでは、困ります。ハッキリさせてください」
 この様な意味あいの言葉を、もっと激しくCさんに言って問い詰めたそうです。
 そうしたら、CさんはB陣営に行ってしまいました。
「Cの野郎、Bの方へいっちまいやがった」
 当時、私は、問い詰めた区議会議員本人の口から、そのような話を聞きました。

 政治運動は、それが盛り上がれば盛り上がるほど、そこに携わる人が真剣であれば真剣であるほど、中途半端な人間を許そうとはしません。
 それが「極右」「極左」「原理主義」と呼ばれる人たちの行動に表れています。
 それぞれは、人間たちが純化したとき表れる正に「美学」を背負って活動している人たちの姿なのです。

 そのような場所に、一般人が近づいてゆけば、大やけどをします。心情的に理解を示す人であれば、ぐいぐい引きずり込まれます。有無も言わさず同化を求められます。どうしもついて行けず、同化を拒否したときに粛正されます。
 なぜならば、中途半端な中間派を「極」に位置する人たちは、認めようとしないからです。

 民主主義は多数決を制するゲームなのです。自らが純化するあまり、大多数の中間派を自ら切ってしまって、果たして多数決を制することができましょうか。

 純粋であることが、どれほど暴力的で不寛容で厳しくて、命を軽く扱うかは、美しさの影に隠れて見えにくいのです。

 かつて私が真の指導者と仰いだ人は、中心にいるたった一人のリーダーだけが純化していればいいと説きました。それ以外の人たちは、純化する必要はないと。中途半端でも、いい加減でもいいと。その人は、身近な人で私がはじめて尊敬した人でした。そのような人にこそ、中間派の人たちは、より多く集まってきたのです。

 それに対して、別の指導者は言いました。俺がこれだけ純化しているのだから、ダメなおまえたちは、もっともっと純化しろと。叱れば叱るほど、命令して動かせば動かすほど、仲間は疲弊していきました。そうやって中間派の人たちは、だんだんと離れていきました。

 私は、いつの時代も、いかなる時も、私自身が純化しきれない中間派であることを意識しています。自分が中間派だと思うからこそ、同じ中間派の人たちに、無用のプレッシャーをかけることをしないように努めています。
 その人にはその人の考え方があるし、その人にはその人なりの人生があり、事情がある。それを一切考慮せず、運動に集約させようとしたとき、多分、その精神構造は、野党を認めない、中国や北朝鮮の指導者のようになってしまうことなのでしょう。

 人は自分の思うとおりには動いてくれません。
 会社組織の中で、上司と部下ならば、命令で動かすこともできましょう。人の心を無視する命令もできましょう。
 でも、政治の世界は、会社ではありません。命令で人を動かすことなどできません。消極的であろうが何であろうが、わずかでも支持してくれる方々にお願いして、何とか運動を盛り上げてもらうしか、政治家にできることはないのです。

 私などは、まだまだ頭の下げ方が足りないそうで、よく支持者から注意を受けています。頭の下げ方が足りない分だけ、せめて日常的には、努めてニコニコしていようかと思っています。


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2009年07月23日 00時52分